まどろむまどログ   - 「快」を求める日々の記録 -

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文学とは、母国語の中で異邦人のように語ることにほかならない。


と語ったのは、たしかドゥルーズだ。


なんでこんなことを思い出したかというと、「はてな」に「自国語の中で外国人のように語れ」という言葉を残したのは誰だったでしょうか?確かマックス・ウェーバーだったと思います。誰が残した言葉か?と、その意味するところをお願いします。」という質問が寄せられて、その回答を眺めているうちに、大学の社会学の授業を思い出したからだ。

私は文学科の所属ではあったのだが、一般教養の時間に取った経済学や社会学が面白かったため、他学部の授業にもちょくちょく顔を出していた。
というよりも、ボーターレスな教育方針の大学であったので、どの学生も思い思い、自分のアンテナの赴くままカリキュラムを自由に組んでいたので、さほど珍しいことではなかったのだ。

また、当時は日本文学科の生徒も「文化人類学」や「比較文学」などにもアンテナをビンビン張り巡らせていた時代だったので、かなりノンジャンルで本を読んでいた。
経済の授業の中ではケインズの思想に興味を持った。
不況打開の策として応用できそうな理論も多いと思うのだが…まあ、この話はケインズを再読してからまた書こう(^^;

さて、ドゥールズの言葉に立ち戻る。
母国語の中で異邦人のように語る」とは、一体どのようなことなのか…。
学生時代大好きだった高橋源一郎さんが、『ららら科學の子』(矢作俊彦著)という書籍の書評に書いている文章がその解説になるのではないだろうか。

○BOOKアサヒコム内
 http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4594

紹介されている本は、1968年、文化大革命を見るために中国に密出国し、30年ぶりに日本に密入国という形で戻ってきた亡命者が見た異形の日本について書かれたフィクション。

書評の中で、源一郎さんは言う。

およそ、文学と称するものには、二つ種類がある、とぼくは思っている。

その一は、趣味・遊びの文学である。それを書くもの、読むものを、止めようとは思わない(どうぞご勝手に)。また、ぼくも時には、その類(たぐい)のものを読む。読んで暇をつぶす。でも、ほんとのところ、そんなのつまらねえ。

その二は、この世に人として生まれたのだから、ほんとうのことを知りたい、そのために、どれほど遠くへ出かけることになってもかまわない、と思う文学である。


私が文章を読むときにいつも願っていることは、この「ほんとうのことのかけらがあるだろうか。遠くへ行くことができるだろうか」ということ。
日常ではない「ハレ」の世界へ誘いつつ、その中に真理を含有しているものがあるのかどうか…。
書籍やWebの文字を拾うときに、いつも心の片隅で願っているのだ。
「ほんとうのことはどこ?」と…。


けれどその一方で「ほんとうのことはそう簡単にはみつからない」ことも知っている。
しかし…何者かに自分の神経が麻痺させられたままの状態で、この国で暮らしていくことだけはすまい、と思う。

「彼」とは誰か。亡命者だ。亡命者とはなにか。自らの意志で、「国」の「外」へ出るものだ。三十年前、この国と戦った「彼」は、いまも、「外」に立って、戦う。「外」に立つものだけが、「内」の矛盾を見出すことができる。

作家とは(作品とは)その国の、その国の言葉の「外」に立ち続けるもののことだ。ならば、優れた作家は、すべて亡命者なのである。


源一郎さんはこうしめくくる。
亡命者の視点で物事をみつめ直し、自らの意識を保ち続けることは、今の日本に生きる私たち誰もが必要とするところのように思う。

それにしても…カタめの思想や哲学の本が町中の書店には全然並ばなくなってしまったのは困ったものだ。岩波文庫が置いてある町の本屋なんて、かなり珍しくなってしまったから…。福音館の児童書を置く本屋が減ったのも嘆かわしいことである。